伝統こけしは、木材をロクロにかけて挽き、伝統的な模様を描いたものであり、代々父祖や師匠の制作方法、形態、面相、頭部や同模様を引き継ぎながら、さらに時代に応じて各工人の工夫も加えながらその系統を守って制作されるこけしを言います。
現在、そのこけしは10とも11系統とも言われていますが、すべて東北地方のみに発生したものであります。
伝統こけし系統マップ
山形県 伝統こけし工人系統マップ
こけしの材料は、均質、緻密、堅くて木肌が白く美しいものがよいとされています。主に、ミズキ、イタヤ、アオカ等が使われますが、他に、椿、桜、ケヤキ、槐、ビヤベラ等も使われます。
みちのくの風土に生まれ育った「伝統こけし」の鑑賞とその振興発展、後継者の育成、山形への観光誘致などを図るため、昭和57年(1982)に第1回を開催しました。宮城県白石市の「全日本こけしコンクール」、宮城県鳴子町の「全国こけしまつり」と並び日本三大こけしコンクールと呼ばれ、毎年秋頃に開催を予定しています。
伝統こけし、木地玩具の展示・即売や、実演工人による展示・即売のほか、誰でも楽しめる絵付け体験コーナーが実施されます。
みちのくこけしまつり歴代受賞作品は、みちのくこけし協会が所蔵しています。
収蔵数
約6,700点
(こけし・木地玩具・その他資料 平成30年2月1日現在)
収蔵内容
「小野 洸(おの たけし)」コレクション
こけし・木地玩具・書籍 約5,600点/平成2年寄贈
こけし愛好家には常に工人さんを訪ね歩き交流される方は多いが、背景となっている東北の山野を隅なく歩き、こけしの生まれた世界を知る希有なこけし「蒐集家」が小野洸氏です。小野氏の趣味は広く、音楽、美術工芸、山歩き、民族研究など多岐に及び、秀眉は山とこけしでした。
明治40年(1907)東京都牛込で出生。東京高専工芸図案課(現千葉大)を出るとコロンビアレコード、主婦の友で天分を発揮し、戦後も出版編集、デザイナーとして活躍されました。培った美術的鑑識眼は鋭かったが、晩年まで大正ロマンチズムの香りを漂わせおしゃれでダンディな方でした。ご両親が山形県出身であったことから、こけし、木地玩具、文献などの全収集品を山形市に寄付されました。
平成7年(1996) 1月に亡くなられました。(享年87歳)
「柴田 長吉郎(しばた ちょうきちろう)」コレクション
こけし 約500点/平成17年寄贈
大正12年(1923)、兵庫県高砂市で出生。東京大学物理学科理学博士、大同工業大学応用電子工学教授、新日本無線㈱常務取締役などを歴任されました。
また、東京こけし友の会・こけし手帖の編集などに、長い間関わり活躍し、こけし蒐集暦は50年以上に及びます。
その蒐集と研究の成果を「山形のこけし」(箕輪新一氏と共著)に書き表し、昭和56年に山形テレビより出版され、これが機会となって、みちのくこけしまつりが誕生しました。そして、草創より顧問として尽力されてきました。
平成27年(2015) 12月に亡くなられました。(享年92歳)
「柴田 一(しばた はじめ)」コレクション
こけし・書籍 約450点/平成19年寄贈
大正末からの収集で、天江コレクション・武井コレクション(消失)と並び、日本最初のこけしコレクションとして有名です。特に昭和4年頃に頒布した小椋久四朗、小林倉吉、荒井金七などを含む、大正末~昭和初期のこけし群がコレクションの中核をなし、貴重なものが多い。その中の一部は、杉本寿著「東北山村の聚落構造」の口絵に掲載されています。
柴田氏は山形の自然や風土を愛し、こけしの普及やこけし工人の育成、並びに紅花や郷土玩具の振興などに努められ、「山形県こけし会」の初代会長として、また日本民芸協会山形県会長などを務め、全日本こけしコンクール(白石市)や全国こけしまつり(鳴子町)の審査員として活躍されるとともに、こけし界発展に尽くされました。
昭和51年(1976)7月に亡くなられました。(享年76歳)
「名和 好子(なわ よしこ)」コレクション
こけし 110点/平成9年寄贈
東京都赤坂の美容家で、所有の「名和コレクション」のうち、山形県にゆかりの深い伝統こけしをそれぞれのこけしを「ふるさと」に帰したいという名和氏の意向を受け山形市に寄贈したものです。これらのこけしは、すべて戦前からまもなく作られたものばかりで、資料的にきわめて貴重なものです。名和氏は、夫明行氏と共に日本の伝統工芸に深い関心を寄せ、戦後の伝統こけし復活に大きな足跡を残されました。
平成6年(1994)に亡くなられました。(享年74歳)
収蔵伝統こけしの貸出
山形市所蔵の伝統こけしは、一般公開を目的にした展示会等にお貸しいたします。貴重な美術作品でもあり、展示には貸出条件がありますので、希望者は下記までお問い合わせ下さい。