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山形南部の町々

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

病院、商業施設などが建ち並び
住宅地としても大きく変貌

●住宅地にひっそりと立つ石の鳥居、造立は平安時代という

 瀧山の山肌も雪が消え峯すじの林が水墨画のように見える。慈覚大師の開いた瀧山(古語・りょうぜん=霊山)は市民から信仰・憩いの場として親しまれている。ただ「瀧の山」 というと、市西南部にも同地名があるので論争は控えておきたい。瀧山ふもとの村は、旱魃の時は雨乞いの祈りをし、水田に必要な水は、山中(神尾地域)に三本木・羽竜沼などの溜池から求めた。これらの沼は、釣マニアに利用され、TVアンテナの立つ所から山形市の夜景を見る楽しみも存在する。夜空の満天の星は美しく、夏の夜に、若人の車が疾風の如く走り去ることだけは止めて欲しい。夏の夜を自然とともに親しめる楽園であり、豊かな稔りを求めている霊山であることを理解して欲しい。筆者は、瀧山から流れてくる「竜山川」の下流で暮しているが、河川敷を散歩すると生活用具が流れてくる場合もあり、元木の白山神社に、粗大ゴミがなくなるよう祈ったこともあった。古い歴史を持つ村は、現在では近代的な住宅街に変り、神社に立ち寄る人も殆ど見られず、都市的性格が強くなったらしい。


●国道が走りぬける青田、古い記録には下大山庄粟生田郷と

 岩波方面から流れてくる竜山川は、やや荒れ川であるが水量が豊かで、小立や桜田・青田地区の水分けの場となっていた。青田・桜田地区の人々は、元禄8年(1695)に三本木沼を守り、村周辺の水田を守って来た。
 竜山川を下ると現在の国道112号で元木橋の北側に「御立の鳥居」が見られる。日本最古の石鳥居は国指定の文化財で瀧山信仰の入口ともいえる。御立の鳥居は小立の鳥居とか元木の鳥居などと地名争いが見られたが、敬称をつける漢字が使用されるようになって、論争する人も少なくなった。現在は鳥居ヶ丘という町名になっている。
 さて、青田地区も現在では国道13号で二分化され、むかしの地域社会・習俗も変りつつある。
 青田は、瀧山信仰と結び付きが強い。石行寺(岩波の天台宗の寺で最上三十三観音の札所)の古記録には「下大山庄粟生田(あおた)郷」と記されている。当時は南北朝時代で、出羽国大山庄(山形市)でも朝廷派と足利尊氏派に分かれて戦っていた。戦国時代末期になると、最上義光公の下で粟や米を作って農民たちが過ごしていた。
 明治の近代化に伴って、山形が県都となり、同11年の青田村は戸数64戸、人口446人で南村山郡に属していた。22年には滝山村となり、昭和29年に山形市に合併した。昭和35年(1950)には世帯数が111、人口は675人の田畑の多い町であった。昭和48年のバイパス完成後に大字青田は青田一〜五丁目と近代化された新住宅街に変貌した。青田地区に滝山公民館があることも気が付かなかった。バイパス沿いには、大手企業のスーパーマーケット、家電販売店も多く見られ、住宅街にふさわしい街並みに大変革した地域である。


●目を見張る桜田の発展、西行が滞在した瀧山寺や瀧山神社

 桜田地区は、上・中・下・桜田東と坂巻川と須川が交わる所まで範囲が広がっている。このように大きい地域は生活環境や歴史的な動きまで変化しているといえよう。例えば、 上桜田村といわれた現在地は、東青田一丁目・青田南・元木一〜二丁目・上桜田と行政区分されている。
中桜田村―中桜田一〜二丁目・桜田東一〜二〜四丁目・桜田西一丁目・青田三〜五丁目・青田南・東青田三〜五丁目・旭が丘
下桜田村―蔵王桜田・中桜田一〜二丁目・桜田東一〜四丁目・桜田西一〜四丁目・元木二〜三丁目・青田南・白山
 以上のように区分され、〇〇丁目の住宅も一軒ちがいで境がちがい、新興住宅地は道路が複雑である。このことは、青田地区・元木地区も同じで碁盤型の道路がなく迷わされる場合が多い。例えば青田四丁目の国道112号の四辻から、東の方角を見ると、上桜田にある東北芸工大の美しい三角屋根が見える。車でバイパスを横切ると、大学が見えなくなる。桜田東の四辻から右に曲がると「青春通り」の愛称で呼ばれている道が芸工大に行く道である。
 桜田東・西地区は、行政的指導があったので、道は碁盤状になっており、西南に向かうと、「さくらパレス」、古い神社の熊野権現(南原町の熊野神社の分神ともいわれている)がある。さらに、西に向かうと坂巻川と須川の交叉する所に出る。ここにある橋は、須川対岸の吉原地区と結ばれ、旧羽州街道時代から有名である。明治14年、明治天皇行幸の時に渡った「常盤橋」で、五つのアーチで出来ためがね橋として有名だったが、明治27年に流失してしまった。
 桜田地区には、中世より続いた瀧山信仰の寺院が散在している。西行法師が訪れたと伝えられる「瀧山寺(りょうぜんじ)」、瀧山大権現の祀らわれている瀧山神社が、古木の中にあり、こまくさ保育園の幼児たちが、楽しく遊んでいる様子もほほえましいものである。


●古くは本木ともいわれた元木、霊山を源とする川が流れる

 元木村は、竜山川、大坊川(河川公園)の下流にあたり、桜田西部と同じように洪水に悩まされた所であった。元木一丁目は竜山川北岸にあり、古くから石鳥居を守って来たので、旧名は「本木」と言われていた。明治11年の戸数は28戸、人口193人で、上記の町は昭和29年に山形市に合併した地域である。
 数多くの商店が南地区に移転し、20世紀の不況期を乗り越える努力で新しい姿の商店街に大きく変化している。国道112号沿いの店、医学部通りの商店はシャッターを下ろしている店が非常に少ない。土地を持った地主は数多くのアパート・マンションを建て消費者を増加させている街である。
 洪水を防ぐ祈りを込めて建てられた白山神社、国道112号沿いの市郷土資料収蔵所、南北朝時代から瀧山信仰と関係の深い耕源時、新山神社などはピクニックコースであり、一般に開放されている芸工大キャンパスも是非訪れて欲しい。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

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