山形市観光協会 公式ウェブサイト - WEB山形十二花月
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
バイパスが開通し一変 ビルが建ち並ぶ
昔も今も信仰と温泉への登り口
●大動脈を行き交うトラック、かつての田園地帯はビル群に
漸く気温も秋らしくなり、朝夕は涼しく、住宅の狭間に見える稲穂も黄金色に色づいてきた。蔵王温泉に続いて山形市の南部地区を訪ねて見ると、昭和42年に山形市東部を迂回する山形バイパスが開通したころは、このように都市化するとは考えられない田園地帯であった。今でも飯田地区の交叉点附近のバイパスに沿って田畑が若干残っている。むしろ、都市化現象の中に、往古の水田が残っていることが「飯田」という地名にふさわしいと思う。この地区周辺と西部地区などは南村山郡といい、明治11年に上山町に郡役所を設けるようにした。当時の南村山郡は、戸数11,606・住人は63,520人で、山形市と東村山郡と三つの地域にわかれていた。 明治22年には山形市が生れ、 南村山郡も上山町以外に15の村が誕生した。羽州街道に沿って松原や黒沢が一つの村をつくり、蔵王山ふもとの集落には堀田村、成沢村、飯田村などが生れ、蔵王山麓の集落は昭和初期まで蔵王高湯の街道として発展していった。山形市の八日町にある八幡様の門前から一貫清水を通り(国道348号の交叉点)、元木・小立の鳥居前を通って青田村、桜田村、飯田村、成沢村と過ぎて、蔵王半郷の「三辻茶屋」で休み、高湯温泉に湯治に行く楽しみがあった。
最近、最上義光公の功績を讃えて、400年記念の山形関ヶ原合戦として長谷堂合戦の歴史を讃え合った。その後、最上家の内紛があり、元和8年(1622)に幕府から山形の最上家が滋賀県の近江地方に転封され、明治時代になるまで山形藩は徳川系の譜代大名が多く交替し、山形藩の石高も減少した。
最上家の57万石という所領は東北でも大大名であり、家臣団の結束力も強かったが、義光公没後はそれぞれ自立性が強くて分裂するようになり、幕府体制によって背後から伊達(仙台)藩、上杉(米沢)藩の情報を得るのに活用された。山形藩主が幕末まで12の領主交替があり、交替する毎に地域を分割し転封先で管理する状態が続いた。
●幕政下、蔵王山麓東南部の集落は堀田佐倉藩の分領だった
蔵王山麓の南東部は幕政下では堀田佐倉藩の分領となっていたので明治22年「堀田村」という村名になった。尚、堀田家の陣屋は、柏倉門伝にあり、「柏倉陣屋領」となっており、蔵王、長谷堂、村木沢、飯塚、船町などを支配していた。この地区は豊かな農産物、主街道通行の諸料金などの収益があり、配下の住人も堀田家の善政を楽しんでいたようだ。山形城下も城主交替が激しかったので、下の商人は幕政下のもとで商業活動を発展させ、内陸でありながら、日本海交通に対して大きな商業権力を持ち、紅花大尽などと呼ばれる商人も多数いる山形城下町で、領主よりも町人たちの勢力が成長したとも考えられる。また、山形南西部を支配した堀田氏は幕府内で要職にあって、千葉県や山形内陸の安定した穀倉地帯を領地にし、出羽山形地区には甘い政策を与えているので堀田村などの地名が生まれたといえよう。
昭和29年(1954)の町村合併以前は、桜田、飯田、成沢、半郷、上野、山神、高湯などと分かれていた。この地区は、昭和10年前後に山形中央から上山方面に産業道路が完成し、国道に指定され、旧羽州街道沿いの街村を凌ぐ発展をとげた所である。現在では国道112号と13号が交叉する飯田インターチェンジが車の渋滞で混雑する所で有名になった。
歴史を辿ると、青田、桜田、飯田地区は龍山信仰の始まった頃より、条里制が見られる寺があり、東北芸工大南西の森には龍山寺という古寺もあって、幼稚園児が安心して遊んでいる。現在は新市街地として宅地造成が行われている。
飯田・成沢地区は、 義光公時代に楯城があり、畑谷城合戦で江口五兵エらと共に討死した飯田播摩守の領地であった。この地区には公共温泉の休暇センターや娯楽施設も市民で満員となる事が多い。昭和40年頃には飯田温泉・動物園なども見られたが悲劇的な終末を迎えたこともあった。
成沢地区は、昔は「鳴沢」と記されており、龍山信仰との関わりが強く、上山行のバス停で下車、15分位東南の成沢城趾口を目指して行くと、12世紀頃に建てられた成沢八幡宮に到着。杉木立の神社にある「石鳥居」は元木の石鳥居と同年代と伝えられ、龍山信仰の登拝口で賑わった。成沢城主は斯波兼頼公六男兼義で後に氏家尾張守が守った城であった。
●八幡神社の石鳥居、松尾山観世音、人びとの信仰もあつく
上山に対する城で、長谷堂城・清水城など48ヵ楯城の一つで、市民の歴史の散歩道となっている。
半郷地区は、市民の蔵王登山の茶屋のある街村で賑わった。半郷地区を登って行くと、右に曲がれば上野―山神―蔵王高湯・童の里歴史資料館―蔵王温泉に行く。半郷地区には、最上三十三観音第九番札所松尾山観世音があり巡礼者で賑わう。奈良時代の役の行者が霊地で修行し、カツラの大木で仏像を彫り、宝形造りの御堂(国指定文化財)に祀られている。また、集落の東北にある秋葉大権現堂は粟野乙松(幕末の彫刻師・半郷生れ)の彫った秋葉大権現「三尺坊」が祀られている。堂守は曹洞宗安養寺の住職である。この寺を訪れると多宝塔・白鳳仏や酒仙の墓などが参拝できる。
山形南部地区には歴史を物語る史跡・古寺・名勝地があるが休める茶店が少ない。国道13号の物産館を利用するだけでは不満が残る。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫