観光情報データベースDATABASE

羽州街道と南山形地区

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

きらびやかに参勤交代の大名行列
大規模な開発が進められていて

●江戸へ上る町人、三山参りの行者、伊勢参りの旅人などが

 最近、全国大会で山形を会場にした「まなびピア山形2001」が開催された。各公民館単位でいろいろな催し物があり、南山形郷土史愛好会(会長・内海吉弥―六小前薬局長)が南部公民館で、「山形の郷土資料展」を開いた。その中に江戸末期の道中地図であるが、山形城と松原にあった山形番所が記録された古い絵図が展示された。この絵図は山形県鶴岡から江戸までもので、羽州街道を知る大切なものといえよう。
 羽州街道と南山形地区の歴史を少し探ってみよう。羽州街道は、元和8年(1623)奥州街道の福島県桑折宿からわかれて、青森県まで58ヵ宿をつくり、大名たちが江戸に行く街道をつくった。宮城県の小坂、七ヶ宿を通り、金山峠から楢下に至るまでの道は元禄時代になって賑わうようになったともいわれている。上山宿から山形・黒沢―松原宿―片谷地―南館―山形城下を結ぶ街道には大名行列、江戸に上る町人、八日町に宿を求めて来る三山参りの行者たち、伊勢参りをする人などで賑わった。
 山形城下では、南西にある三の丸の吹張口があるが、羽州街道は七日町―十日町―八日町―五日町(吹張口の南)―上町と西側に向い、正徳寺より南に鋭角に曲っていたが、今は道路事情が大きく変ってしまった。少なくともこの寺中心に山形城下の町屋が残っており、さし物大工店などが最近まで見られたが、古い街道がわからず通り過ぎてしまう。次の街道に見られる家並は、南館村といい長谷堂―小滝街道の分岐点であった。天正18年(1590)に伊達家の相続問題があり、政宗公の母(御東)は最上義光公の妹であるので、実家に帰ってしまった。義光公は当時の幕藩体制が不安定であったため、上町(当時は上条町ともいう)の南に住居を建てて生活させたので「南楯」と呼ぶようにしたといわれている。村の廻りは水利もよく、田畑も発達し「富ノ中」(富重とも書く)など豊かな生産があって、御東も長く居住し、政宗公と和解するまでのんびり過ごしたらしい。尚、富ノ中には平安初期に建立した龍泉寺大日堂という古寺があり、地域住民の信仰が深く、安らぎの場として親しまれている。
 吉原宿は葦(植物名のヨシ)の多い所ということから名付けられた。羽州街道に沿って見られる街村で、長谷堂合戦の時に義光公が詰所(陣屋)を築いたという。この地区は須川、犬川、滝山川などが合流する所で地形が時折変り(川欠ともいう)肥沃であるが災害に見舞われる所であったと伝えられている。最近は古代遺跡の発掘も行われ、須恵器を利用した村が発展していることも明らかにされている。南館、富ノ中、吉原地区は、現代の大型店舗の進出によって大きな変化を見せている。


●5つの眼があるめがね橋、3万個の石、7万人の人夫動員

 さらに蔵王駅方面に向うと坂巻という街村があり、近代的な民家が並び、昔の面影が一変した坂巻橋がかけられている。明治9年に着任した三島県令は、県内の道路整備に情熱をたかめ、傾斜のある須川と龍山から流れてくる犬川、滝山川、大坊川などの小河川の合流する所に「坂巻常盤橋」を石で築き「めがね橋」をつくった。明治11年4月に着工、五つの眼のあるめがね橋で三万個の石を切って人夫延人数七万人(模範囚人も含む)が5ヵ月で作った。明治天皇行幸の折、大変感激され金一封を振舞ったという。今の常盤橋付近は山形新幹線が橋の下を通り、その上に高架型につくられた常盤橋があり、山形のビル風景、山大医学部のビル、龍山の姿も見られる。
 山形方面から南に羽州街道を行くと、山形城下より一里半ほどの松原に山形番所があった。常盤橋を渡れば、金井村があり明治34年山形駅が開業すると金井駅(現在の蔵王駅)が誕生した。むかしは、狐が住みついて人をダマスのできつね坂ともいわれた所で、今は山形短大生の通学路で賑やかな駅前である。この地区は、片谷地村といわれ、街道との関係は伝馬を出して荷物の運搬に協力する助郷村であった。しかし、生活は馬だけでなく、畳表の原料イグサの産地として有名であった。現在は新興住宅地として発展しているが、藺草は須川の水を利用して一日漬けてから干すと色の良い呉座表、畳表など上質なものを生産し加工販売した。この作物は弘化年間に水野藩が近江の琵琶湖から原料を仕入れて、新しい産業を発展させようとして実施し、戦後30年ころまで続いた。河原に干した藺草を返したりするのは子どもの仕事といわれ、家族全体で守った稲作の副業の一つ。伝統工芸品として復活させたいものである。
 松原地区は集落西に条里遺構が発掘された所で、山形城下の番所が設けられた。番所とは大名行列・幕府要人以外の通行手形を点検する所で、行政的な権力を持っていた。また、集落出土に伴って、古松原焼、久保手古窯群なども出土していることから、山形城下町より古い歴史を持っていたといえよう。


●山形番所があった松原、多くの商業問屋も並んで賑わう

 江戸初期に、秋田の佐竹侯が羽州街道の設置に努力したことから別名「佐竹街道」と呼んだが、松原の番所には岩瀬四郎右ェ門とか草刈市郎右ェ門が馬継立の問屋をして、椹沢、志戸田、青柳、山家などから伝馬助郷の協力を得ていた。松原地区は番所を持っていることから、多くの商業問屋もあり、大名などの宿泊地として利用されているので旧家が多いことも大きな特徴といえる。
 昭和47年に開さくした黒沢温泉は、江戸時代に松原地区だけでは不合理と訴え、黒沢地区も月10日間は番所の役割を占めるようになった。黒沢の南側は起伏の多い丘陵で、羽州街道の開さくに苦労した所で、久保手の方に登って上山の四ツ谷に行く路であった。現在は山形市の大規模住宅地の開発がすすめられ、月山、葉山、蔵王などの山並の見える住宅街が誕生すると考えられる。なお、上山の競馬場から松原に向う傾斜の多い羽州街道は、三島通庸の時代に開拓された道で、久保手の道より2b広い8bの国道が開かれ、明治以降は、羽州街道として紹介されるようになった。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

ひとつ前のページへ


Page Top